昭和49年06月23日 月例祭
丁度お祭りの一時間ばかり前にお風呂を頂きました。久富先生と二人でもう毎日の事ですけれども、七十にでもなるお爺さんがもう一生懸命やって洗って下さる。背中を流して下さる。もう足の爪先までこうやって洗って下さる。私は踏ん反り返った様にしておるけれども、心の中は本当に勿体ない勿体ない。勿論金光様を何回唱えるか解らん程しにおかげを頂いてます。こうして体を流して頂きよりましたら急に背中が痒かった。
かこうと思っても手が届かん「先生ちょっとここん所をゴシゴシやって下さい」「ここですかね。」もうその気持ちの良いこと。その時に神様から『極楽』と言う事を頂いた。痒い所がねかけない。これが地獄です。自分にもどうにも出来ない、自分の手が届かない。ああもありたいこうもしたいと思うけれども、それが許されない世界が地獄だと私は思います。けれどもねもうここそこそこと言う様にです。もう本当にいうなら、間髪を入れずに痒い所はここですか。と言うてかいて貰える手がそこにあると言う事。
それが成程、極楽です。それこそ極楽、極楽。どうぞですか皆さん。痒い所をかいてもらう時に「そこじゃなか、こっち」と言わないかんならはがゆかですもんねかえって。けれどもそれこそ、痒い所に手が届く様なおかげが頂けれる道なのです。金光様の信心は。そういうおかげを頂いて貰いたい[私しゃ十八あなたは二十使うて減らぬ金百両、死んでも命がある様に]という様なです。そげなバカなと言うけれども。そういうおかげが実際頂けれるのがお道の信心です。
昨日は、私共、三十二年目の結婚記念日で御座いました。何時も田主丸のむつやの共励会の日ですから、あちらで色々と、その度に特別に私共夫婦を正面に据えて、沢山の方がいらして、皆さんから「結婚記念日お目出とう御座います。」と、祝福して頂いて、おかげを頂いております。必要な物が、言うなら必要に応じて頂けれる世界、そういう世界はです。教祖様は[氏子信心しておかげを受けてくれよ]と仰る。おかげとはそう言うおかげだ。只、目先の難儀な事が整うた。
只その願ごうた事だけが成就した。と言うそれもおかげに違いはありませんけれども、そういうおかげを頂かんで済む様なおかげ。最近私が申しております貧乏のない世界、病気のない世界、争いのない世界、こういう三つの極楽の要素とでも申しましょうか。合楽の要素合楽と言う事は、神と氏子私と皆さんとにかく両対立するというか、向かい合ったものが両方共有り難いと合掌し合うていけれる世界、拝み合っていけれる世界、そこの所を頂かせて頂く為には様々な難儀がある。
その難儀は極楽のだから入り口だと言う事になる。そしてそういう苦しい中から、言わば解脱して行く助かって行く、救われて行くという貧乏のない世界・争いのない世界・病気のない世界を、思うて見ただけでも素晴らしい事。それが頂けれる世界なんだ。そういう道なんだ。金光様のご信心は。というて生身を持っておりますから、痛い事もありゃ痒い事もある。けれどもです痛いという時には擦って貰う人があり、痒いという時にはその時で「ここですか」とかいて貰える人があるという程のお繰り合わせ。
言うならば素晴らしいタイミングの中にです。生活をさせて頂くと言う事なのです。そういう言うならば皆さん、おかげを目指して信心の稽古をしなければいけない。まあいつもの事ですけれども、私の今日一日なら一日の事を聞いて頂くなら、今日は三時に目覚ましのおかげを頂きました。すぐシャワーをかからせてもろうて、待たせて頂いておりましたら、毎日の事ですけれども、息子と娘が迎えに来てくれます。私の部屋に。そして光を灯してこの控えまで出て来ます。
家内に見送られて朝の出所をする訳で御座います。三時半から三十分間もうこれは私の極楽の中でも最高の極楽です。ずっと三十分間神様を想う時間なんです。そりゃもう本当に、私のこの気持ち皆さんに分かってもらいたいと思います。毎朝素晴らしいです。そういう有り難い思いで三十分間過ごしておりますと、二番目の息子が私の部屋の襖と御神前に繋がる襖とを取ってくれますから、私はこの御簾の中に入ります。
そして一時間もうそれこそぎっちり一時間、みっちりと神様にお礼を申し上げさせて頂いたり、お詫びをさしてもろうたり、又皆さんの事をお願いお取次ぎをさせて頂くというのが、私のいうならば朝の始まりであります。五時にここへ着かせて頂きますと、若先生が五時の御祈念を致します。もうその頃にはお広前に一杯皆さんが集まっておられます。若先生の御祈念が丁度三十分間掛かります。
これは普通に拍手、天嗣祝詞、大祓、拝詞と言う風に、何処の教会とでも変わらない、同じ儀式的な朝の御祈念から皆さんの御祈念が始まる。御祈念が終わらせて頂くと、私が皆さんにそれこそ神ながらなおかげを頂いて、今日はいっちょあれば話そう、これば話そう、というのではなくて、もうそれこそ、神様の前に此処に何時も置いております、教典を神ながらに開かせて頂いて、しかも私の目の落ちる所の御理解を。
今日は何十何節と言う様に頂いてそれを私も頂く、皆さんも頂くというのですから、その雰囲気ムードと言う物は、もう朝の御祈念を味おうた者でないと解りません。私が話しておって私が話していないなぁ、私自身もそうだなそうだなと合点しながら頂く程しの御理解なのです。御教えなのです。それから今日は日曜で御座いましたから、特別報酬委員の方達の御祈念も御座いましたし、一寸今日は何時もより時間が遅く、八時半頃までご奉仕させてもらう。すると朝食の準備が出来ております。
私と高橋さんと家内と繁雄さんと毎朝四人でお食事させてもらいます。それに今日は壱岐からお客さん先生が見えておられました。壱岐の末永先生のお兄さんです。ですから一緒にお食事をさせて頂きましたから、ちょっとお食事の運ばれる前に、飲み残しの洋酒が御座いましたから、それを「持って来い。」と言ったら色々と持って来ました。「これが三千二百円のブランデー、これは五千円もするそうですよ。
このブランデーは、これは元は今は安くなったそうですけれども、世界一といわれるジョニ黒」ジョニウォッカウイスキーを持って来ました。ですから皆でそれを賞味させて頂きながら、勿論朝ですからガブガブ飲む様な事は致しませんけれども、先生好きですから、大変喜んでね、私もお相伴しよったらポーッとなった。それからお食事を終わらせて頂いたら、何時もの通り久富さんが足を揉んで下さいます。もう本当にね、ずうっと極楽を感じずにはおられない程しの一時なのです。
そしたら、福岡から、お広前に出ようと思っておりましたら、是非私でなからにゃいけんというご信者さんが見えておられましたから、出らせて頂きましたら、もう今日は、日曜でしたから、沢山の人がそこでご教話を頂いておる。その方のお取次をさせて頂き、今日は四時頃まで日曜で大変お広前が賑わいました。その間にも今日は、丸少少年少女会)が日曜ですから、昨日から合宿しております。皆んな揃のあの服を着て、そして、あちらチラチラ、こちらチラチラ、バンドの練習をする人もある。
主として遊び戯れておる子供たちもある。もう本当にそれを聞きながら「極楽ちゃ、こういう風じゃろう」とこう思うです。あれが例えば調子も合わんとに、ガッチャンガッチャン云わせたり、ガンジャン云わせるならね「あぁやかましか、止めんか」ちゅうごたるけども、一つのリズムがある。それをお取次させて頂きながら、御祈念をさせて頂きながら、聞かせて頂いておる。私を思うて下さるという。
それから丁度四時半の御祈念を終わらせて頂くちょっと前に、昨日は小倉で北九州地区の教会の、いわば幹部の方達の集いが御座いました。その役員を日田の綾部さんが受け持っておられますから昨年から。それでまあ言うならば綾部さんのお供と言う様な事で、秋永先生以下四名の方が、いうならば合楽のハイクラスの方達が五名自動車で参りました。そして丁度私が退ける、丁度時間に皆さん帰って見えられまして。
御祈念終わって話を聞かせて頂きました。今日はも家ん中よりも外が良かろうと言うて、あの大きな泉水の前に、大きなテーブルが御座いますから、あそこへ卓を置いて椅子を置いて、大きな鯉が群れ泳いでいる泉水の前で、皆さんのお土産話を聞かせて頂いた。「もう、今度ばっかりは先生、もうそれこそ合楽に始まって、合楽に終わりました。」というお話を聞かせて頂きました。沢山の教会があります。どっか上方の方から大変偉い先生が見えておられました。
もう一番始めに、昨日合楽の話を、と言う事だったそうですから、秋永先生がしばらくお話をした。所がそのお話にえらい反発を皆さんが感じた。もちろんその先生が、「こりゃあ明日は(まあ、明日まで続く訳ですから)こりゃあ明日はちったやり合わにゃならんばいな」と思いよった。確かにです。合楽のお話をすると皆んながね、抵抗を感じる位に素晴らしいんです。
例えば、儲け出した話しばっかり例えばすると、もやもやするのと同じこつ です。言わば、合楽の阻止!!私はそれを見て驚きましたけれども、そういう秋永先生がお話しをした事を中心に、言わばあのあれは何ですか、ガリ版じゃないけど。写すとがある、もうそれにいっぱいに合楽のあり方というか、そういう説明を聞いた事が合楽だけの事ではありませんけれども、何かお帳面ができております。
それをまだ、隅から隅までは見せて頂いておりませんけれどもです。いよいよ蓋を開けて今朝からです。もうその先生を始めですね、皆さんの合楽に対するそれがね、もうそれこそとにかく、合楽はどうでしょうか。合楽はこげん時にはどうですか。と言うて、しかも四班か五班かに別れてのとこに合楽の方が一名ずつ。今度はどうしたものか筑水から一人も行ってなかった。
それででもやっぱり、北九州ですから、長崎辺りから、佐賀辺りから皆んな集まって来ておりますから、やっぱし、六十名余りの方達が信心の研修をした訳です。そして、今言う様に、もうとにかく合楽に始まって合楽に終わってしまうという様な合楽ムードの中におかげを頂いたという話を聞かせて頂いて、私が申しました。「もうね、今の金光教だけじゃない。もう今の、勿論、今の金光教教会のある方が皆んな合楽の生き方にならなければできないのだ。いいやもうそういう時代が来てるんだ。
大きな社会の難儀というものを見る時にです。この合楽の生き方でなければ助からないのだ。当然、合楽に皆んなが来ておる、合楽の生き方を皆さんが学ぶ、研究をさせてもらうという様なです。おかげを頂くのが当然だ。」と私は申しました事でした。そしたらお昼が出て参りました。もう私は驚きました。これはもう高級レストランに行かなきゃ食べられまい。いや、高級レストランでも食べられない様なねお料理が出てきた。もうこら、日本酒が出て来た。
もうその五人の先生方は、今日は神様がね、ご苦労さんと言うて下さるのでしょうねあれは、わざわざあの人たちが帰って来るからあれも買うときなさい、これも用意しときなさいと言う事じゃない。ここは皆さんもご承知の様にもうそれこそ、お酒一合お魚一切買う事は致しませんから、みんなそれがお下がりで出来ておると言う事、日本酒の出来て来る頃になって、もう愈々私はもう、感嘆の声をあげました。
素晴らしい。もうそれこそ昨日、壱岐からね、アワビの生き物を海の水の中に入れて、たっぱに入れて、お供えしてあった。それを、お刺身にして来てるんですから、そりゃあもうそれを氷の上にのせて、見た目にも食べても素晴らしい味わいの味わいを味あわせて頂いて、さあ、お食事という時には、鯛の味噌漬けが出て来ました。本当素晴らしい。と言う様にですね、いうならば山海の珍味をと言うか言うならば問題は、おいしゅうと言う事。目に見えても又綺麗で美しいと言う事。
大きな鯉が群れ泳いでいるその泉水の前で私共が今日六人食卓を囲んでですね、言うならば合楽の信心を語り合っておる。そういう姿こそが私は極楽だと思うんです。そうしてただ今申します様にまあ一杯きりになりました。ですから文男先生と正義先生が二人すぐ足をもみにやって来た。まあそれこそ大の字になってから、本当にこげな気持ちそれこそ極楽、極楽と言おうと思いよるとね涙がこぼれて来るの。
だから不機嫌のごとしてから揉んでもらいよる。その半ばに「お客さんが見えましたよ」と言うて来た。高芝さんの妹さんで牧さん。その牧さんの話を今しがたしよったんです。私ども六名で、今度はもう小倉では奉仕する人がなかった。六十人も行ったけれども、ここのもと参って来よんなさった、石井キヨシさんのおばさんに当たります高芝さんの妹さんに当たります。
あの牧さんという方がもう一人で、もう愈々御用をしておられましたという話を聞いておる所へ、牧さんがひょっこりそれこそ、ここが出来てから初めてじゃないでしょうか、お子さん方二人を連れてお礼参拝があった。ある事のお願いをしてあったのが、大変おかげを頂いた。そのお礼参拝があって、親先生に一言お礼が申し上げたいからというので、私は半ばで立って参りました。
そして、秋永先生がお相手してくれとりましたから、色々おかげを受けておられる話を聞かせて頂いておりましたら、秋永先生が「先生、どうぞお風呂を入ってきて下さい。」と言われるから、それならお客さんにはご無礼するからと言うて参りましたら、久富先生が、こりゃ又毎日夕方必ず私の足をもんで下さる事になっとるのが、まだその勤めを果たしてない訳です。何か勤めさせるね。
えらぁい荒使いしよるごたるけどね、もう先生自身も実を言うたら、私をもみながら感動しながら喜び一杯で御用を頂かれるんです。文男先生と正義先生がもみ残した所を又もんで頂いとる内にです、ならもう一風呂浴びようかと言うて、お風呂入っての話がさっきの話です。二人で入るそれこそ足のつま先まで洗うて頂いて、急に背中がかゆうなった。「先生、そこんとこちょっと」「ここですか」と言うてその時に神様からね。
極楽と頂いた。なら今日一日の事を皆さんがずうっと思うて頂いて、極楽と言う事は例えばね、連のうてなにちゃんと座っておらねばならんと言う様な退屈でない事が解るでしょうが。ある場合には、それこそ衿を正さなければおられない様な厳粛な時間があるかと思うと、ある時にはこげな楽をしても良かろうかという楽があって、そしてこういう珍しい、こういう美味しいものを頂いて。
まあ良かろうかと神様が与えて下さるのだからですから。極楽とは自分から求めて頂ける物ではなくて、与えられるものであると言う事なんです。ここ四五日とにかくこの合楽にそういう合楽のね見本極楽の見本を造ると。ですから私一家だけではない。ここに御用を頂かれる皆さんがです。皆んな是が合楽であろうか、是が極楽であろうかと一週間程前に、下田教会の小笠原先生がお参りをして見えて、ここでブラジル布教やらハワイ布教の事を聞かれてから「先生どうでもブラジルに合楽を創って下さい。」
ハワイに合楽を創って下さい。」という言葉にえらい私は感動した。「そうだ、ただ布教じゃない、合楽を創りに行くのだ。極楽をそこに創りに行くのだ。神様も喜んで下さる氏子も喜べれる所の世界をそこに創りに行くのだ」ですから、合楽を中心として合楽にご縁を頂いておる皆さんの一人一人がです。そういう合楽のおかげ、言うならば一切のものと拝み合うていけれる争いない、病気のない、貧乏のない世界、顕現の為の信心の稽古をさせて貰わなければならいと言う事。
そこでです。ただこのおかげを頂かねばならんから、この事をお尋ねせんならんから参るという信心からです、皆さんがもう一度前進して私が申します、そういうおかげの頂けれる道があるならば、どういう風な生き方にならせて頂いたら良いかという教えを頂くと言う事が、合楽通いでなからなならんと言う事です。先日尾道の教会から五十四名の方達が団体参拝をして参りました。
十六日の日でしたそのお礼がすぐあくる日電話で、もうそれこそ感動一杯で若先生が受けたというのですが、お礼の電話があってあちらの信徒会長さん、それからあちらの親先生からもうねんごろな、もうラブレターの様な手紙が参りました。もうとにかく合楽に行ってのあの感銘、感動が今もなお信者の間に残っておりますと言う。十六日ですから、何日になりますか、もう一週間になります。いうならば合楽の言うならば極楽的風囲気の中にです。浸らせて頂いて、その感動が続いておる。
もうそれをね、どう讃えて良いか分からないと言う風な感じなんです。こう書かれたかと思うと、また次に書いてあるもう書き終わっとろうかと、又一ページを又便せんに又次に書いておられる。そして、最後の所にです。まあ大して素晴らしい詠とも思われませんけれども、もうそれこそ合楽でおかげを頂いた感激を一つの詠に表わしてここに来ております。『親神の 深き恵みに生かされて 光り輝く 合楽の里』とあります。どう表現して良いか分からない。
それこそ合楽と言う所、光輝く合楽の里、それも親神の恵みを充分に受けたお広前であると言う事をね、この簡単なお詠の中に言うておられます。だからそういう世界が、まずは皆さんの家庭の中にもね、おかげを頂いて。まずは自分の嫌な心の上にそれを、日にね何回みなさん達が「あー極楽」と先日から頂かせて頂きますとですね、もうとにかく色々極楽の条件と言う物がです。
まず衣食住と言う事、ならどうですか今日は一日とうとう食べられんじゃったとか、住む家もなかったとか、着るとに着物もなか、今日は暑かばってん綿入れどん着とるちゃあ誰もおらんでしょうが。それだけでもならもう極楽なんですよ。けれども肝心要の自分の心が極楽でないから、極楽、有り難いと思われんのである。ですから結局極楽を感ずると言う事は、先ず自分自身が、自分自身の心がそれを感ずるのであるから、そういう心を、「和賀心」という。
その和賀心に限りないおかげ、それこそ使うて減らぬ金百両的なおかげが受けられるのです。これも皆さんが合楽の在り方をご覧になればお解りになるでしょう。死んでも命がある様にちゃ、そげなこたぁいくらの合楽でも出来めぇと言うけれども、それこそ二十五年後にこの地球が破滅すると言う事を言わば予言した人があるという。それが一々ずっと実現しておると言う事ですから、それこそ肌に泡つぶを感じる様な思いが致します。それがもう二十五年後に迫っておるんだと言う事。
そこで私共がそう言う中から、いうなら生き残る人々として、おかげを頂いて行く為にです。広がるに広がる栄えるに栄えて行く様なもとの信心、自分で自分の首を括る様な生き方から、広がりに広がって行く様な、生き方を身に付けて行く者だけが、生き残ると言う事を、この事に付いて私はお知らせ頂きました。いいやそれが例えば、生き残る事が出来なかったと致しましても。
そんならば魂の世界までも、破壊されると言う事はありません。魂の世界を信じなかったら、いうなら信心が、いうなら神様を信じれないのと同じ事です。そこでその魂の世界ででもです。私共がね言うならば、安心の霊としておかげを頂いて行く為に、この世に安心の心を開いておかずしてあの世に安心の世界があるとは思われないという。このままあの世に行けれるんだというこの姿勢感がです。私は死んでも命がある様にと言う事はそう言う事なのです。
死んでも命がある様に、しかも死んでからでも広がりに広がって行く道をです。辿らせて頂こう。皆さん、そういうねおかげ、そういう信心をです。本気で一つ体得させて頂いて様々な持っておる難儀、抱えておる問題、そう言う事を通して、その事に対して、お礼の言えれる様な信心を何とか身に付けたい。そういう私は、前向きな信心。なら、信心をさせて頂く時にです。愈々もって皆さんの心の中に家庭の上にもです。いわゆる極楽世界を表わして行く事が出来る。
今や合楽教会というのは、全国からその様な意味において、良い悪いまだ様々ですけれども、そういう注目を受けておる。ひと度合楽に来させて頂いたら、もう合楽のあの感動、感銘は忘れられない。またどうぞ来らせて下さい。又、教えて下さいと言う様なものが現在の合楽にある。そういう物をです。皆さん一人一人が愈々頂いてもらわなければならない。そう言う道を辿って頂けなければならんと、思うのでございます。
どうぞ。